カテゴリ:歴史( 61 )

余談

鎌倉時代、弘安、文永の役、すなわち元寇ですが、
(元が日本に攻めて来た。)そのときに
「神風」が吹いて元軍が壊滅したという話は
ご存知だと思います。

中世史の研究者である故網野義彦さんの仮説が
面白いのです。
鎌倉時代の武士は幕府から動員がかかると、
「いざ鎌倉」というわけで戦闘の準備をして駆けつける
のですが、それは見返りをもとめているのであって
単純な奉仕ではありません。(奉公→御恩の関係。)

戦後、幕府はそれぞれの武士たちに恩賞をあたえたり、
略奪を黙認したりするわけで、
普通は負けた相手の土地だったり権益をとりあげて
恩賞にするのですが、
このとき各地の寺社が調伏や祈祷をさかんに
行っています。
「神風」とはその寺社の調伏や祈祷の効果だったので、
つまり平たく言うと、恩賞が欲しいということだったのではないか?
ということでした。
武士たちが、ことこまかに戦闘の記録をつけていたのは、
あとでこれこれの戦果をあげたので恩賞をくれ!ということだったのです。

元寇では元の軍隊(実際には高麗や宋などの寄り合いの軍)からは
土地や権益などは取れないので、恩賞を与えるのは
きわめて困難でした。そしてそれが御家人の失望を買い、
鎌倉幕府の滅亡の遠因になったという事です。

昭和になり「神風」は特攻隊に結びつけられてしまうのですが、
鎌倉時代においては「神風」とは祈祷や調伏の効果として、
寺社勢力が言い出したことだったのでしょうね。

鎌倉時代は「武士道」というものはまだ成立していません。
そもそも武士といものは自分の生存権を守るために武装
していたのであって、必要がなくなれば廃れて行きます。

源氏も平家も自身が権力を握ってしまうと公家みたいに
なっちゃいました。実朝は「金槐和歌集」を編んだ歌人
でもあります。で、三浦氏と組んだ(?)公暁に殺されてしまいます。
北条氏が暗殺したのでは?という話もあるのですが、
この時、太刀持ちであった北条義時が体調不良を訴えて源仲章に
代わってもらいますが、公暁はその仲章を斬り殺しています。
これが本来なら義時ですから、北条氏がかかわったとは考えにくいですね。
ただし、なんらかの情報をつかんでいたかもしれません。

公暁はこの事件の直後に三浦義村(乳母夫)に使いを送ったのですが
なぜこのことを三浦に知らせたのでしょうか?
義村は北条義時に知らせ、公暁は討たれてしまうのですが、
公暁は義村から使いがこないので雪のなか義村邸に向かいそこの
塀をよじ上ろうとするところを打ち取られてしまいます。
そして実朝の首はなぜか行方不明になってしまいました。

言い忘れましたが公暁は二代将軍頼家の次男です。
しかし謎ですねえ。
いかんいかん寄り道しすぎちゃいました。
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by caymmi1 | 2010-08-25 13:57 | 歴史

また鎌倉を考える。

最近、中世都市鎌倉を掘るという本を読みました。
ちょっと堅い本ですが、とても面白かったです。
鎌倉考古学研究所、網野義彦という日本の中世史研究の第一人者(惜しくもなくなられましたが。)
が編集をしたということで読んでみる気になりました。

そもそも鎌倉は京都や奈良よりも研究が進んでるとはいえません。
この本は「御成小学校」の発掘調査をもとにしたパネルディスカッションの
内容を編集した本です。

1消費都市としての鎌倉。この発掘調査で大量の漆器が出て来てしかもそれが
 ほとんど新しいものだった。これは「使い捨て」の容器だったのではないか?

2鎌倉の最盛期は周辺をあわせると10万人規模だったのではないか?
 従来考えられているより大規模な都市だった。

3宋からの大量の磁器が出土した。鎌倉は日本における宋文化の輸入センター
 だった。

ざっと内容を説明するとこんな感じなのですが、
ひとつ面白いことがあり「四角四境祭」のことが話題に上りました。
それは鎌倉における安倍晴明信仰のことです。
北鎌倉の踏切の近くに安倍晴明の碑があるのですが、
これは明治39年に建てられたものであり、
このころまでこの北鎌倉では安倍晴明信仰があったとのこと。
建長寺の向かいに第六天を祭った社がありますが、
ここにも安倍晴明の碑が建っています。

大三輪さんという研究者によると、天台山が京都でいえば比叡山の方向に
あたり、八雲神社は祇園社と呼ばれていたとのこと。

山ノ内は鎌倉の北の結界であり、この八雲神社で陰陽師が、
四角四境祭のうち四境祭が行われ、
ただし、吾妻鏡には3代将軍より以降の記録しか見られない。

当初、鎌倉の御家人たちは陰陽道にあまり関心がなかったが、
このような陰陽道はやはり京都からの文化流入だったのでしょう。
弘安10年に安倍晴宗が鎌倉陰陽寮の長官に就任しています。
やはり、武力だけでは政治はうまく機能しない
ということなのでしょう。
大江広元が京都から鎌倉へ下向し、
頼朝の家政機関の公文所の別当になります。

続く
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by caymmi1 | 2010-08-24 00:50 | 歴史

今様

鎌倉を語るとき、源義経の存在は欠かせません。
静御前は義経の愛妾でありますが、
いわゆる「白拍子」という男装で芸能を行う女性あるいは若年の男性でした。
歌舞伎に連なる彼女らは、「今様」という自分の心情を表現した
歌と踊りを演技していました。

義経が頼朝の怒りを買い、逃避行の最中、静御前は吉野で捕らえられました。
鎌倉に護送された静御前は、頼朝から鶴岡八幡宮へ
奉納の舞を踊るように命令をうけました。

大観衆で埋まった八幡宮の舞台で静御前は、愛する義経を思い、

しずやしず しずのおだまきくりかえし
昔を今になすそしもながな
吉野山 峰の白雪ふみわけて いりにし人のあとぞ恋しき

社殿には頼朝と北条政子がそろってこの静の舞を見入っていた。
しかし頼朝は公然と義経への心情を歌った静御前に激怒しました。

しかし政子はそんな頼朝に、
「石橋山の合戦に破れてあなたの行方がしれないとき私はとても心配しました。
今の静も同じ事です。どうか舞を褒めて下さい。」といい、
頼朝をとりなしました。政子も夫の頼朝を熱愛し、
父の意思に背いて頼朝のもとへ奔った女性だったのです。

頼朝の生まれた西国では多数の女性と関係することが当たり前だったのに、
東国では一夫一婦制といって良いかもしれません。
政子の歴史上の評価は芳しくはなく、「尼将軍」などと呼ばれています。
政子は公的にも私的にも夫と行動をともにしていたといいます。

これ以降、静と政子とは親しく交際したが、静が義経の子を出産し、
しかも男児だったことから、由比が浜に子供は捨てられました。
政子がとりなしたがこれは聞き入れられなかったといいます。

由比ケ浜からはおびただしい数の人骨が発掘されました。
理由はよくわからないがある時点からこの浜は遺体捨て場になったようです。

東国の女性たちは気性も強かったが、積極的に人を愛し、
自己主張も激しかったようですね。ただし、この話は「吾妻鏡」にしか
出てこない話だといいます。「吾妻鏡」は鎌倉幕府の公式歴史書です。
ひょっとすると政子の偉大さを後世につたえるための
創作かもしれないとの説もあります。

いずれにせよ自分の矜持を貫いた愛の物語と言えましょう。

上村松園 「静」

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by caymmi1 | 2010-04-20 19:04 | 歴史

ええと、この前の続きです。
今回のは明白な論拠もないのですが、自分で考えたことです。
鎌倉は観光案内では「古都」ですが、僕の感じでは京都や奈良の古さとは
違うと思います。
「公家の文化」の京都だとすれば、鎌倉は「武家文化」としての都市であろうかと思います。
金沢もやはり「武家文化」の都市だと思いますが、精神性、いいかえると宗教施設である社寺の
性格が違うような気がします。

京都の政治、文化、思想に対するものがそろっている都市は江戸をのぞいては鎌倉ぐらいしか
ないような気がします。
特に鎌倉の新仏教としては「禅宗」や「日蓮宗」、「浄土真宗」、「時宗」などですが、
そのなかでも「禅宗」の名刹の多さは他に比類がありません。

鎌倉は江戸が文化の中心になるまでは、実に先駆的な所だったと思います。
「宋」の文化の茶、精進料理、水墨画、こういうものが日本文化に輸入されてきました。
残念ながら鎌倉は室町幕府の「鎌倉府」をめぐる混乱から衰退していき、
江戸開府にともない鎌倉はすっかりさびれてしまいますが、
江戸時代の後期になると江戸の観光地になっていきます。

建長寺の扁額です。実に大きな字で「建長興国禅寺」とはっきり読めますね。
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by caymmi1 | 2010-04-17 23:48 | 歴史

鎌倉を少し考えてみる

鎌倉は現在は観光都市ですが、以前はもちろん鎌倉幕府の所在地でした。
そして寺院が多いですね。

平安期は鎌倉のある関東は「坂東」とよばれ、また「東夷」の地でした。
京都からは穢れた地で、「源頼朝」が京都から伊豆へ「遠流の刑」で流されたことは良く知られていますね。
また伊豆や八丈島にはよく異形の化け物が出たと良く都では噂になったようです。

鎌倉幕府は頼朝だけが作ったわけでなく、北条や三浦、和田や千葉氏など関東八平氏や武蔵の
豪族などが中心になって作り上げた「東国国家」でありました。
朝廷や貴族の使い走りだった野蛮な武士たちが新しい国家を作ったわけです。

だからこそ義経の振る舞い(後白河上皇から官位をもらった)が許せなかったのですね。
「万死に値する」と思った訳でしょう。
そして「八幡神」の勧請です。今は「はちまん」と読みますが、以前は「やはた」と読んだようです。
この神は矢とか秦氏に関係するという説もありますが、確かなことはわかりません。

平将門が「新皇」の即位を上野の八幡神で行ったという事もありますね。
都に対する対抗意識がとても強かったと思います。
東国の武士団はたぶんに狩猟民族的性格があり、都の貴族たちはそのことを蔑みの対象にしていたし、
わざわざ鎌倉へ行く事を「下向」といっていたようです。仏教と中華思想がまじりあい、
殺生を行う者が関東の野蛮な土地に住んでいると思ったようですね。だから「あずまえびす」
なんでしょう。

なにせ坂東の地では「親も討たれよ子も討たれよ」というのが信条でしたからね。
しかし、その鎌倉の地にも陰陽道や当時の新しい仏教である禅宗などが急速に流れ込んできました。
特に三代将軍の実朝は自ら宋に渡りたいと思ったようです。

様々な争乱の末、執権としての地位を手に入れた北条氏は「文永、弘安の役」という国難をむかえ、
精神的支柱に禅宗を導入しました。特に鎌倉五山の一位の「建長寺」の扁額には「建長興国禅寺」
とはっきり大きく読めますね。ほんとに大きいものです。やはりこれはスローガンととらえるべきでしょう。

宋の有名な僧侶が鎌倉へ渡ってきました。「無学祖元」や時代は下りますが、「夢想疎石」など。
当然ひとりではなく、たくさんの僧侶も渡っていたことかと思います。
京都に対抗して「武家の文化」を作ろうとしていたと思います。
もちろん禅宗の食文化である「精進料理」や「茶道」も独特に発展しました。

しかしやがて鎌倉は新田義貞に滅びされてしまいます。
足利氏は関東でありながら京都の室町に幕府を開きます。
鎌倉には「鎌倉公方」というものを設置しましたが、ゆくゆく「堀越公方」と「古河公方」
というものに別れてしまい、あまつさえ関東管令の上杉氏も勢力をのばし、鎌倉じたいは
混乱にまきこまれて行きました。
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by caymmi1 | 2010-04-15 19:01 | 歴史

神奈川県の歴史

神奈川県に引っ越してもう三ヶ月目です。
もはや4月になってしまいました。
仙台とはいくらか気候や植生が違いますねえ。でもいくぶんは慣れました。
僕の住んでいるところは鎌倉にごく近いこともあり、(北鎌倉まで歩いて40分くらい)
日本の中世に興味を持ちました。特に鎌倉幕府を成立させた「東国武士団」のことです。

それで本を見つけました。永井路子著 「相模のもののふたち」です。

仙台に住んでいると伊達家が大きくてなかなか関東の歴史には目が向いていませんでした。
鎌倉幕府はなにも頼朝や北条家ばかりが作った訳ではなく、
和田、三浦、梶原という有力なご家人が作り上げた武家の政権でした。
 
特にこの本で興味を惹いたのは、現在の秦野市は波多野の郷であり渡来系の秦氏が住み
古くから開発され、当時の先進地帯であったということです。
鎌倉からは結構遠いのですが、そこで永井氏いわく、三浦氏を初めとする海の武士と
波多野氏を初めとした山の武士がいたのではないか?ということでした。
まだ読みかけですが、ちゃんと読んだらまた記事をアップしたいと思います。

有隣新書 永井路子著
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by caymmi1 | 2010-04-07 19:11 | 歴史

院政

鎌倉のすぐそばに住んでいることもあって、
最近、「院政」に関する本を読んでいます。
では何故かと言うとこの「院政」が初の武家政権である鎌倉幕府成立
に深く関わって来るからです。そして「院政」にはいろいろな意味があるのです。

院政とは、天皇が譲位して上皇となり実質的に政治の実権をにぎるというものです。
代表的な人物に「白河上皇」がいますね。

さて、それではなぜこのような政治形態が生まれたのでしょうか?
一つには天皇が即位する条件の一つは男系の直系の男子ということになると、
ひょっとすると該当者がいなくなるおそれがあり、混乱のもとになりますね。
事実、古代から天皇の即位を巡って大きな戦乱がありました。
それで幼い子に天皇を即位させ、政治的空白を生まないように実質的な権力を
上皇が握り、政治を行なおうとするものです。

次に「院政」とは藤原氏が従来行ってきた摂関政治との決別です。
藤原氏は平安期を通して強い権力を握って来ましたが、それは藤原氏の血の入った
皇嗣が生まれず、やむなく白河天皇が藤原氏の血の入った弟(異母兄弟)を
即位させる事を条件に天皇となりました。
しかし、白河天皇は弟にではなく、自分の子供に天皇の位を譲ってしまいました。
藤原氏は天皇の外戚ではなくなってしまいました。

では、なぜ武家が力を持ったのでしょう?
上皇が政務をとるとなるとどうしても「実力」が必要になります。
いいかえると「軍隊」ですね。
当初、貴族の使い走りに過ぎなかった「武士」がその実力機関になっていきます。
これが「北面の武士」なのですが、一方で臣籍降下した貴族たちが、坂東の地(関東地方)
に続々と移住しますが、そこは極端にいえば「無法地帯」でした。
実力がものをいう世界でしたし、蝦夷からの武力侵入も(逆もあり)たびたびありました。
移り住んだ貴族達は蝦夷の戦士が得意としていた乗馬の技術を獲得し、
しだいに精強な武装勢力となって行きました。

平安時代になりますと朝廷は自前の軍隊を解散させてしまいました。
それは「蝦夷征伐」が一応の決着を見、蝦夷が朝廷に臣従したと判断されたためです。
しかし、完全に心服したわけではなかったのです。
従って「武士」とは「軍人」ではありません。いわば貴族の私兵だったわけです。
武士は自分の力をアピールしなければなりません。そのため「鬼退治」だとかを
盛んにやって自分を雇ってもらうように努力をしたわけですね。
おそらくこのときに日本の武士の倫理観や道徳観が生まれたのでしょう。

源頼朝は頼信がおよそ一世紀前に拠点を構え(河内の壷井八幡宮より八幡神の分霊をした。)
、父である為朝の拠点に東国国家として鎌倉を建設しました。しかし朝廷の院政は存続し、
鎌倉幕府と朝廷で日本の政治が行われていきました。
院政が実質的になくなるのが「建武の新政」ですがわずか三年で破綻し、朝廷の力は
衰えていきました。

世界史的に見ても、古代、中世、近世がそろっている国家はそうありません。
ヨーロッパと日本くらいでしょうか。「院政」とは日本の中世を語る上ではやはり重要
です。とくに「院政」とは他に類例を見いだすことは困難です。ほぼ日本独自のものと
言えましょう。まあ良くも悪くもですが。

僕はその昔、日本史や世界史が大嫌いでした。大学では現代政治史と法制史をやったおかげで
いくらか好きにはなりましたが、勉強しだしたのが30歳を過ぎてからでした。
やはりなんといっても高校時代の教科書ですね。これをなんども繰り返して読み、
その時代時代の関連する書籍を読み、少しずつ学習していきました。
独学なので見当違いや誤っているところなどもあると思います。平にご容赦を。

先日、鎌倉の建長寺に行ってまいりました。少し写真などアップしておきます。


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by caymmi1 | 2010-03-26 16:56 | 歴史

武士

平安の末期ころから、桓武天皇や清和天皇の係累が臣籍降下をし、
その一部が「さぶらうもの」として貴族に仕えるようになります。
本来は国司に任命された貴族が赴任地に赴かず、
かわって「さぶらうもの」がその代わりをつとめたり、
ボディガードみたいに貴族の身辺警護をするようになります。

坂東の地はことさら治安が悪く、武力がどうしても必要だったのです。
また、辺境(坂東は今の関東で、京都からすれば辺境。)では新田開発もその「さぶらうもの」
が行いました。それが「武士」なのですが、やがて新田経営を通して力を蓄えて行きました。
関東の各地に「牧」をつくり、平時は農耕、戦時は使役のため馬を飼うようになります。
また、平氏のように交易を行い、こちらの方はある時は貿易、ある時は海賊となりました。

そうして力と財力を蓄えるようになりますが、そのころは「武士道」というものは存在していませんから、
おそらく今でいうと「ヤクザ」みたいなものだったのではないかな?と思っています。
「源平盛衰記」などでも、木曽義仲がことさらに無礼者のように表現してあるように思います。
貴族は彼らのことを恐れ嫌っていたのでしょう。

貴族は儀式をしたり、和歌を詠んだりするのに忙しく、(まつりごと)ほとんど政治らしいことは、
ほとんどやらなかったのでしょう。
福島県の相馬には「相馬野馬追」というお祭りがあるのですが、
これは古くは「軍事演習」だったそうです。

神旗争奪戦と競馬(比べ馬)があるのですが、
競馬のとき、監視の人が不正なスタートをしないように大声で注意をします。
もうほとんど「けんか状態」なんです。

ヤクザは怖い反面、リアリストでもあります。
武士も徹底した現実主義者ではなかったかな?

この話題まだ続きますね。
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by caymmi1 | 2010-02-22 00:54 | 歴史

歴史とイデオロギー

歴史とは不思議なものだと思います。
あるきっかけで、大国がその地位を失ったり地位を得たり、革命があったり挫折したり。
ちょっと考えるとそこには法則性があって、その法則にあてはめるとすべての謎が解けるような
気がしてしまいます。しかし現在のところその試みは成功しているのでしょうか?

その法則さえ解いてしまえば、たとえば戦争など争いがない平和な社会が訪れるのでしょうか?
そうであって欲しいと僕は思います。
日露戦争の少し前、機関銃が実用化され、定かではありませんが、
これで戦争はもはやできなくなると当時の識者は語ったそうですが、
一向に戦争は止む気配はありませんでした。

ファシズムや共産主義運動もイデオロギーを用いましたが、
誤解を恐れずに言えば、ある種の平和運動も僕にはイデオロギーに見えます。
これはもちろん平和に価値を求めないという意味ではありません。
「核なき世界」というのはもちろん期待はしたいのですが、
ではすべての国や武装勢力が一斉に核を放棄することは
ありえるのでしょうか?

おそらくそれはありえないでしょう。なぜなら、もう我々は核兵器の存在を知ってしまっており、
すべての国や団体(あるいは個人)が核兵器を放棄した状態で、
もし密かに核兵器を持っていたならば言葉は悪いですが、他国に対し恫喝に使おうとするでしょう。
現在でもある国は核兵器を所有したがっているように思います。
核をもてば外交交渉のテーブルについてくれると思っているようですね。

だからといって日本が核武装すれば良いと思っているのではありません。
日本における平和運動や非核運動があまりに理念的に過ぎると感じているためなのです。
西郷隆盛は「平和を維持するためには戦争する覚悟でやらなければだめだ」
という意味のことをいったそうですが、ぜひ現実と理念のバランスをとりながら運動を
すすめていって欲しいと思います。

どんな理念でも固定化されイデオロギーになってしまえば理念は形骸化してしまい、
それこそ「呪文」の類いになってしまうと思うのです。

少し表題と離れてしまいましたが、お許しください。
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by caymmi1 | 2010-02-21 22:09 | 歴史

歴女ブーム?

うーんと最近は「歴女」ブームなのかな?
それはとても良いことなんだけど、
年をくったせいか、なにか小言をいいたくなった。

ごめんなさいねー、おじさんのたわごとですよ。
もちろん、「歴女」のみなさんと、歴史が好きな人たちとは若干違うのかなー、
なんて思ってはいます。

ご隠居ふうに言うとですね、「ったく最近のわけえものはなあ、だれがイケメンだなんて
そんなことはどうでもいいんだよ。おや、よたろうかい?こっちへへえんな。とくと、
源平盛衰記をかたろうじゃないか。」
「とんでもねえこって。あっしはそんなに食べられねえ。」
「団子を食おうってんじゃないよ。歴史の話だよ!」
なんてとんちんかんなことを言ってますな。

まあ、話をもとにもどすとですね、
僕の見るところ、「歴女」(だけじゃないんですが)の多くのみなさんは、
「戦国時代」に集中しているように思えます。
もちろんそうでない方もいらっしゃいますが、大部分はそうですね。

別に文句をつけるわけじゃないのです。
あの時代は歴史の転換点だったし、重要な時代でもあります。

しかしながら、武士を語るのであれば、武士の成立から知らなければ面白くないと思うのです。
とすれば平安時代にさかのぼらなければなりませんし、
荘園制なんかも知っておいたほうがよいですね。
さらにさかのぼれば、律令体制、班田収授法にみるような「公地公民制」の体制が、
三世一身法で崩れ(別の見方もあります。)、後に墾田永年私財法になっていきますが、
この社会体制の変化と武士の台頭とは深い関係があります。

歴史とは僕は川のようなものだと思うのです。
歴史を知ろうとすれば、さかのぼらなければなりませんね。
まあ、それはともかく、歴史は面白くない地味なことも知っておかないと、
本当に分かったとは思えないのです。

おっと知ったかぶりしてえらそうに語ってしまったのですが、僕がどのくらい知っているかというと、
これです。

「千早ぶる神代も聞かず竜田川唐紅に水くぐるとは」
ですね。
つまり、こんな具合です。「むかし、竜田川という相撲取りがいたんだな。
それがだ、千早というおいらんに、ほれたんだな。だけど、振られてしまった。
そこで、神代というかむろに言い寄ってみたのだが、
「あちきもいやでありんす」といって聞かなかったんだなあ。で、竜田川、故郷にもどって、
豆腐やをやっていたんだ。そこに乞食同然の女がやってきて、おからをくれというんだ。
お易い御用だっていって竜田川がその女を見たれば、なんと若い頃自分をふった千早では
ないかっ、あな口惜しいてんで、井戸に突き落としてしまったんだよ。」
「ご隠居、そこまではわかったんですが、最後の「とは」てのはなんです?」
「うーん、あ、そうだ、とはは、千早の本名だった。
えーお後がよろしいようで。

いやあ僕の歴史の知識とはこんなものです。
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by caymmi1 | 2010-01-28 20:52 | 歴史

ブラジル音楽中心の雑感
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