人気ブログランキング | 話題のタグを見る

また鎌倉を考える。

最近、中世都市鎌倉を掘るという本を読みました。
ちょっと堅い本ですが、とても面白かったです。
鎌倉考古学研究所、網野義彦という日本の中世史研究の第一人者(惜しくもなくなられましたが。)
が編集をしたということで読んでみる気になりました。

そもそも鎌倉は京都や奈良よりも研究が進んでるとはいえません。
この本は「御成小学校」の発掘調査をもとにしたパネルディスカッションの
内容を編集した本です。

1消費都市としての鎌倉。この発掘調査で大量の漆器が出て来てしかもそれが
 ほとんど新しいものだった。これは「使い捨て」の容器だったのではないか?

2鎌倉の最盛期は周辺をあわせると10万人規模だったのではないか?
 従来考えられているより大規模な都市だった。

3宋からの大量の磁器が出土した。鎌倉は日本における宋文化の輸入センター
 だった。

ざっと内容を説明するとこんな感じなのですが、
ひとつ面白いことがあり「四角四境祭」のことが話題に上りました。
それは鎌倉における安倍晴明信仰のことです。
北鎌倉の踏切の近くに安倍晴明の碑があるのですが、
これは明治39年に建てられたものであり、
このころまでこの北鎌倉では安倍晴明信仰があったとのこと。
建長寺の向かいに第六天を祭った社がありますが、
ここにも安倍晴明の碑が建っています。

大三輪さんという研究者によると、天台山が京都でいえば比叡山の方向に
あたり、八雲神社は祇園社と呼ばれていたとのこと。

山ノ内は鎌倉の北の結界であり、この八雲神社で陰陽師が、
四角四境祭のうち四境祭が行われ、
ただし、吾妻鏡には3代将軍より以降の記録しか見られない。

当初、鎌倉の御家人たちは陰陽道にあまり関心がなかったが、
このような陰陽道はやはり京都からの文化流入だったのでしょう。
弘安10年に安倍晴宗が鎌倉陰陽寮の長官に就任しています。
やはり、武力だけでは政治はうまく機能しない
ということなのでしょう。
大江広元が京都から鎌倉へ下向し、
頼朝の家政機関の公文所の別当になります。

続く

by caymmi1 | 2010-08-24 00:50 | 歴史  

<< 余談 岩波少年文庫 >>